シングルマザーの三兄弟国公立医学部現役合格日記

この春、二人の兄に続いて末っ子の三男が某国立大学医学部に入学。でも一番驚いているのは母親の私。なんでお前たちが現役で医学部に受かるんだ?三人三様のドタバタの医学部受験を振り返って。

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おじいちゃんの英語

私の体調は、冬を迎える頃にやっと回復しました。
高校での最後の三者面談、多分12月だったと思いますが、それには出席することができ、ほっとしたのを覚えています。
でもそこでも私は、担任のI先生に、どこに行ってもいいけれど浪人だけはさせられないと、繰り返していたように思います。


実はうちの子ども達は三人とも、期間は違いますが、祖父(私の父)に英語を教わっています。
父は大学で英語を専門に学び、その後も翻訳などを仕事にしていた関係で、英語が堪能です。実は私も大学受験の時に父に英語を習いました。
でもそれから、30年。父も80歳になり、英語を使う仕事はとうの昔に辞めています。
さすがに無理だろうと思っていたら、何かの世間話のとき父が
「今年の東大の英語はやっぱり骨があるね。80点しか取れなかった、しかも3時間もかかった。あれを高校生が解くんだから大したもんだね」
と言っています。父は虚栄を張ったりする人ではないし、英語に対しては非常に厳しいし真面目です。私はもしかしてと思い、長男の英語を見てやってくれないかと父に聞いてみました。半信半疑でしたが、父は自信がないとは言いながら、快諾してくれました。

長年連れ添った母を亡くしたばかりの父が、孫に英語を教えるという目標を持つことで、元気になってくれればという思いもありました


実は長男は、完全な理数系で、数学や物理はまあできますが、英語と国語がだめでいつも足を引っぱっていました。
高3の10月ぐらいから月に2.3回、おじいちゃんの家庭教師が始まりました。


父は大変張り切って、A大学や早稲田の過去問、英作文の問題を自作して解かせたりと、熱心に教えてくれました。
そして「○○(長男)は英語のセンスがある。基礎もできている。これなら今からちゃんとやれば十分間に合うよ」と言って励ましてくれました。
実際この後、長男は、入試で英語の試験を受けるたび、おじいちゃんのもとに急いで持っていき、採点をお願いしていました。その度に二人で、一喜一憂。
英語を教えたり、問題を一緒に分析しているときの父は本当にうれしそうでした。


80を越えて、英語から何十年も遠ざかっていたはずの父が、色々な大学の過去問を研究したり、疑問があると専門書や原典にさかのぼってまで調べあげたりするのを見て、娘の私も脱帽です。

孫かわいさもありますが、何より英語に対する情熱でしょうね


おじいちゃんはすごい❗️


祖父への子どもたちのまなざしが、すっかり変わっていきました


この後、次男の時も、三男の時も
おじいちゃんの英語は大活躍!
三人の孫に、自分の得意分野を教えることができただけでも十分幸せですが、第一志望ではないものの希望する医学部に、全員が入学することができ、父の喜びようは大変なものでした。


役目を終えた父が、この後ぼけてしまわないか私はひそかに心配しています。

精神科への入院

私にとっては3回目の、6年ぶりの入院です。
前の入院の時は、三男がまだ小さく、母に2か月預けっぱなしにしました。
入院だけはどうして避けたかったのですが、全く立ち上がることができなくなり、どうにもなりません。


子ども達はだいぶ大きくなったとはいえ、我が家は母子家庭。しかも長男の大学受験は目前。
最初3カ月の入院と言われ、私はかなり混乱しました。それでは受験に間に合わない。子ども達への申し訳なさでいっぱいでした。


この時次男は高1 三男は中2です。
入院中、次男は宿泊研修’(合宿だったかな?)に行ってしまい、残った三男が洗濯や買い物など家事を頑張ってくれたそうです。


入院後、幸運にも体調は徐々に上向き、2週間で退院することができました。
主治医は早すぎると止めたのですが、家のことが心配で仕方なかった私は、かなり強引に退院をしてきました。
退院の時、「何があっても自分で責任を取ります」みたいな念書を置いてきました。ちなみに、主治医は私の大学の後輩です。(あの時は無理を言ってすみません)


でも、やっぱり医者の言うことは聞くもので、退院が早すぎたのか、その後も体調は一進一退。寝たり起きたりの毎日で家事も全くできず、長男の受験どころではありません。
横になっていると、隣の部屋で長男がゲームをしている音が聞こえてきて、イライラはするけどしんどくて起き上がれない、そんなことばかり。


とにかくもう、どの大学でも、何の学部でもいいので合格を決めてほしい。そんな思いでした。浪人だけは絶対にダメだと。


この頃私は、言葉で伝える自信がなかったので、長男に手紙を書きました。
浪人はさせられない 医学部にこだわらず、実力相応のところをいくつか受験して、入ったところに進学しなさい。まだ下に二人も控えているのだから
というようなことです。
長男はその手紙を読むなり、2階の自室に上がっていき、机に椅子をたたきつけたりしてかなり荒れたようです。
あとでこっそり見に行くと、壁に赤マジックで大きく
「ふざけるな いい加減にしろ」と殴り書きがしてありました。
長男も精神的にかなり追い詰められていたのでしょう。今になってみると気の毒ですが、その時は私も必死でした。


長男は後で、おばあちゃんが死んだあと、母さんの体調はどんどん悪くなって入院してしまうし、もう受験はできないと思ったと言っていました。


受験で大事なものは色々あるでしょうが、何と言っても本人と支える家族の健康が第一だと痛感しています。

おばあちゃんの死

ではまず長男の受験から


3兄弟の中で中学受験をしたのは次男だけ、長男は私立の中学に推薦入試で入り、三男は高校受験をしています。
長男は小2の頃から野球をやっていて、野球の強い中高一貫校に行きたがりました。ただ中学受験で合格できるような実力はなかったので、色々調べて推薦で入れる私立にしました。教科書レベルの算数と国語の試験、それから親子面接がありました。
塾にも通いましたが、あまり勉強はしていませんし、成績も偏差値で言うと40ぐらいでした。


親子面接で、優しそうな若い男の先生に
「みんなに自慢できることはある?」
と聞かれて、得意そうに
「ゆびずもうです」
と答えていたことを思い出します
じゃあ先生と勝負しようと言われて、照れながらゆびずもうをしていました。そして無事に合格。受けた子は大体合格するような、簡単な入試です。


中高時代は、ほぼ野球一色
定期試験の時に少し勉強するぐらい。
でもとても雰囲気のいい学校で、何より先生方がとても熱心で、生徒を大事にしようという気持ちが伝わってきます。長男本人も学校が大好き、私も大満足で本当にいい選択をしたと今でも思っています。


長男の意識が変わりだしたのは、私の母が亡くなったころからでしょうか
母、子ども達にとっては祖母ですが、忙しかった私の代わりに、幼いころとても可愛がってもらいました。下の子のお産の時に預かってもらったり、保育園や学童に迎えに行ってもらったり、子ども達もとてもなついていて、おばあちゃんが大好きでした。


母は筋萎縮性側索硬化症という難病で、5年間の闘病の末亡くなりました。少しずつ全身の筋肉が萎縮して、身体が動かなくなっていく大変悲惨な病気です。母の死は私にとっても子供たちにとっても大きな衝撃でした。次第に体の自由がきかなくなっていく恐怖の中でも母はずっと、持病を抱えた私と、3人の子どもたちのことを心配し続けていました。
その時高2になっていた長男は、祖母の死に何を思ったのでしょうか?ちゃんと聞いたことはないのですが、その頃から彼の勉強に対する姿勢というか、覚悟が変わってきたように思います。


とはいっても、人が変わったように勉強をし始めたわけではありません


高3になって部活を引退し、今までよりは勉強時間が増えましたが、野球中継は欠かさず見るし、弟たちと長々ゲームもするし、私から言わせればとても医学部受験生の生活ではありません。


3年生になって、確か駿台に通いだしたように思います。週に2回、数学と物理だったかな?駿台模試も受けましたが、当然A大学医学部 E判定 でもなぜか、早稲田の理工はCぐらいだったと思います。ごめんなさい定かではありません。この頃の私の記憶はかなりあいまいなのです。


なぜなら長男が高3の春ごろから、私の体調が悪化。(母の死が相当なストレスだったようです)休職しただけではよくならず、夏休みについに身体が全く動かなくなってしまい、精神科に緊急入院したのです。